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馬上の楽園
地上の楽園は馬の背にあり。-コーラン

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DATE: 2010/06/11(金)   CATEGORY: 乗馬
わたしが乗馬をやめた理由【完結編】 - 馬に乗る、ということ



馬という動物や馬の心理、調教についてはもちろんのこと、乗馬技術そのものからアレクサンダーテクニーク、NLP、スポーツ心理学、キネシオロジーにいたるまで、「馬に乗る」うえで必要と思われる、ありとあらゆる種類の知識を学ぶため、文献やCD、ビデオを海外から取り寄せ、むさぼるように見、聞き、読みまくった。本だけでもいったい何十冊読んだだろう。

読んだことを実践して、びっくりするほど「乗れた」と思うこともあれば、まったく役に立たないと感じることもあった。「これこそ」と思った知識で、大半の馬に当てはめてうまくいきそうなことでも、別の一部の馬たちにはちっとも通用しないどころか、逆効果になったものもあった。

馬は自然の一部であって、自然と一体の生き物だ。だとすれば、基本的にどの馬にも当てはまり、かつ、どの馬たちも喜んで受け入れる「真理」というか、「乗ることについての真髄」があるはずだと思った。高等な芸術馬術は一部の“能力のある”馬たちだけにしかできないとしても、「乗って、自在に速歩や、駈歩や、停止、方向転換ができる」ようになるための、正道があるはずだと。


゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。


そのとき(かれこれ10年ほど前)、在籍していた乗馬クラブに、リトルという名の馬がいた。サラでも競馬出身でもなく、ポニーよりは少し大きい中間種の馬だった。

若くて頭がよく頑丈だったのでレッスンでは大活躍していたが、一方で“ワガママ”でも知られていた。でもこの馬の心根は優しくて人間好きで、なおかつ“お茶目”なのをわたしは常日頃感じていて、ワガママも本当に性格がワガママなのではなく、あるいは人間が嫌いだからではなくて、リトルの賢さや正直さゆえの「主張」なのだと思っていた。

とはいえ、リトルに終始“ワガママ”を通されて先生の指示通りに運動ができないことはしょっちゅうで、先生が怒ってレッスンを中断されたこともあったが、それでもリトルが好きだった。リトルの能力とか乗り心地は関係なくて、とにかくリトルというこの愛情深い馬が大好きだったのだ。

だからレッスンで乗る以外にも、手入れなどの世話はもちろん、時間があればしょっちゅうリトルの馬房に入り浸って、話をしたり、ただ並んでぼーっとしたり、今はアンヌに毎日しているような「カキカキ」をお互いにし合ったりして、なるべくたくさんの時間を一緒にすごしていた。先生はそんなわたしを見ていつも苦笑い。レッスンよりよほど楽しそうだったのだと思う。現に楽しかったし(^^)

リトルとリトルと。
SN3G0381.jpgカキカキ中。(いずれも友人撮影)


先生のレッスンはいつもはマンツーマンか、多くても3人までの部班だったのだけれども、ある日たまたままだ数鞍の初心者の会員さんと時間が重なり、責任感の強い先生は初心者の会員さんには付きっ切りで教えたいので、仕方なく「悪いけどあなたは今日は各個乗りです。直径10メートルの輪乗りで駈歩を練習しなさい」とおっしゃった。つまり、先生の指示はない状態で、一人黙々、直径10mの輪乗りをかきながら駈歩を練習するのだ。馬はリトルだった。

そうは言っても先生は生徒からまったく目を離すということはない人だったので、遠くから見守られているだろうことは知りつつも、それでもいつもよりは怒られずにすむだろうと思ったので、ちょっと緊張が解けて安心したのと、いつもワガママされ放題のリトルと二人きりで、10メートルのはずの輪乗りが馬に引きずられて30メートルとかになったり、あるいは輪ではなくて四角とか三角になったらどうしようと、いつも以上に心配になったりもした。

そんな不安もあったので、初心者さんの練習場所からは気持ち遠めに離れて、まずは常歩で、次に速歩で、そして最初は15mくらいの少し大きめの輪乗りで、2、3周準備運動をした(下乗りは先生がいつもしてくださっていた)。

いつも先生の指示でやるように、いったん常歩に落として深呼吸してから、輪乗りを少しずつ詰め、10mほどにして、ふたたび速歩へ、今度は駈歩まで移行するつもりで、練習に入った。

いつもならこのとき、リトルには「そんなきつい輪乗りはイヤ」と反抗されて、だらだら楕円形を描いてしまうか、あるいは常歩に落ちてしまうかだった。でもこのときは、リトルはとても従順で、すぅっと輪乗りを詰め、そしてすぅっと速歩へ入ってくれた。

たぶん、先生の目を普段よりは気にしなくてすむ分、わたしもリラックスできていたのだろうし、リトルという目の前の馬に集中することができていたのだとは思う。がしかし、わたしはそのときまだ乗馬を始めて2年か3年、脚の位置は不安定、速歩でしっかり座ることもまだ十分できていなかったし、そしてすぐに手綱が緩んでブラブラになり、毎回先生に「手綱がブラブラですよ!!」と厳しく注意をされていた。脚に注意すれば手綱が緩み、手綱をしっかり握れば脚がブラブラし、挙句お尻が浮き上がる。そんなことの繰り返しだった。

でもこのときはなんだか、「リトルと二人っきり」というのが嬉しくて、そして何より、すっかり気が緩んで(笑)「頑張るぞ!」という気持ちがきれいさっぱり失せていた。そんな状態で乗っていたから、いつもよりはよっぽど、なんというか、気合が足りなかったような状態だった。

そうはいっても練習をサボるとかそういう気はまったくなく、「目標は駈歩」というのは心に銘記していたので、10mの輪乗りをいい感じで速歩で乗れているその流れで、「じゃぁそろそろ駆け足しよっかな…」という気持ちで駈歩の合図を出した。

いつもなら尻っぱねをお見舞いしてくるリトルが、なぜかこのときは、なんの抵抗も反動もなく、スルッと、本当に「スルッと」駈歩に入った。

あまりにスムーズだったので、駈歩になっているのか分からず、でも歩様は明らかに変わっているので、「うん?」とリトルの足元を目で確認しないといけなかった。

はたして、リトルはちゃんと駈歩をしていた。

「あれ、駈歩できちゃった」

と思ったら、ふと、手の中にいつも感じていた抵抗というか、世間にハミ受けと呼ばれる、馬の口の感触がないのに気がついた。いつもだったらこのことに自分で気づくより前に、先生から「手綱がブラブラですよ!!」か、「馬の顎が上がってますよ!!」と注意が飛んできていた。ありゃ、また手綱ブラブラだ、と思ったけれど、そしてやっぱり手綱はブラブラだったのだけど、なぜかリトルの顎は上がっておらず、それどころか軽く顎は引いた状態で、頭が上下することもなく、すごく「かっこいい」首の形をしていた。わずかに内方の目が見えたので、ちゃんと内方姿勢も取れているのだと分かった。

あれれ?なんかいいぞ、リトル。

おかしな話だけど、なんだかそうやって駈歩していたら、メリーゴーランドに乗っているみたいな感覚になってきた。安定した形をずっと保つリトルに、手綱も大して引かず「ただ座っているだけ」の自分。リトルと、その周りのふんわりした空気だけが見えて、周りはぼんやりして見えない。夢心地、ってあのことを言うのだろうか。でも頭の奥のほうで、そのうち先生から注意が飛んでくるのかな~なんて心のつぶやきが聞こえてもいた。

ふとその瞬間、リトルが駈歩から速歩に落ちた。「ありゃ、落ちちゃった」と思った。でもそのときはその“夢心地”だったから、体の反応がいつもより遅かった。というか、いつもより焦りだとか「しまった!」という感覚がなかった。だから「また駈歩しないと…」と思っても、体がぼんやりしていて、駈歩の合図がすぐ出なかった。

そのとき、つまり、「あ、また駈歩しないと…」と思った瞬間、なんと、リトルは駈歩を始めた。駈歩の合図の、内方手綱もいじっておらず、外方脚もまだ動かしていなかった、にもかかわらず、リトルはふわっと、スルッと、駈歩へ移行した。

「オッケー、駈歩ね」

というリトルの声のようなものが聞こえた。内方の瞳はしっかりとわたしを見ていた。リトルがわたしの心の声を聞いて、駈歩を始めたんだと、分かった。


遠くから先生の声が聞こえてきた。

「Kさん~!(わたしの旧姓)お尻が左に落ちてますよ!お尻が!!」

左手前の輪乗りだったので、お尻が左に落ちる、とはつまり、わたしのお尻から上(と、おそらく鞍も)がズルッと、内方にずり下がってしまっている状態をさした。

「お・し・り・が!落ちてますよっ!!」

わたしが反応しないので、先生からダメ押しが飛んできた。
先生の声は確かに聞こえていた。わたしのことを言っているのもわかった。お尻が左に落ちている…のも、言われてみればたしかにそうだった。でもなぜか、先生の声はとても遠く、そして、聞こえていて理解しているのに、体が動かなかった。

先生が初心者さんのレッスンを終えてやってきた。わたしはまだ駈歩を続けていて、先生はそのわたしとリトルを指差し、初心者さんに向かっていつになく熱を入れて(熱血先生なのです)、

「そう、こういう練習、こういう練習がしたいのです!!!」

と言った。


「いいですよ、駈歩やめ」

そう指示を出した先生の姿が目に入り、考え事から我に返ったような感覚で、「あ」と思ったら駈歩が止まった。

「手綱をご覧なさい、またブラブラです」

と言われて、「あー」と思ったけど、先生はなぜかにこやかだった。手綱ブラブラ、体のバランスはめちゃめちゃ、それでもなぜあんな「見本のような」駈歩ができたのかを、先生はあまり気にかけてはいないようだった。

先生は、いかにもわたしがリトルにしっかり指示を出していたかのように初心者さんに説明していたが、否、わたしは駈歩の指示すら出していなかったのだ。ただ心の中で思ったら、リトルが動いてくれたのだ。でもそんなことを言っても、先生には笑い飛ばされて終わりだろうと思ったので、言わなかった。


゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。


その日は片道2時間半の帰路でも、家に帰ってからも、ずっとリトルのことを考えていた。

手綱はブラブラ、体は内方にずり落ちて、脚の合図すら出せなかった。体重移動だとかそんな“高度”なことをするにも当然至らない。それなのに、リトルはわたしが思ったとおりに、寸分の狂いもなく、そして、わたしもリトルも何の抵抗もなく、速歩や、駈歩をしていた。

ただの「リラックス」でもない。かといって、ただの「集中」でもない。

そもそも、そんな小難しい理屈なんて関係なかった。


わたしが「駈歩をしたい」と思った。
だから、リトルは駈歩をした。


ただそれだけのことだったのだ。


゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。


親しい友人や、家族、恋人、夫婦などの間では、片方が考え事をしているとき、もう片方が、相手が今、何を考えているかを当てる、なんていうのはしょっちゅうだ。

二人がどれだけ親しいかを知っていれば、それを見ていた周りが、「ええっ、どうして分かるの?!?」と本気でびっくり仰天するほどのことでもない。仲が良くて“通じ合って”いれば、相手が今何を考えているのかなんて、それなりに分かるものだ。

では、馬と人ではどうだろう?
種が違うから無理?
言葉が通じないから不可能?

わたしはそうは思わない。

わたしはリトルが大好きだった。そして、リトルもきっと、わたしのことを好きでいてくれたと思う。

好き合う二人だったから、気持ちや、考えていることが通じた。そう考えれば、脚や手綱や体のバランスがダメダメで、文字通り「何もしなかった」のに最高の駈歩ができたのも、納得がいく。


あぁ、乗馬は、技術じゃないんだ。
知識でも、経験でもないんだ。

大好きな馬が、自分のことを好きでいてくれて、恋人みたいに心が通じれば、それだけで乗れるんだ。


この日リトルに乗せてもらって、わたしは身をもって、そのことを教えられた。

そして同時に、こうも思った。


恋人といえるほどは心が通っていない馬が相手なら、乗れなくて当然だったんだ。いや、と、いうより、心が通じ合っていない馬に乗っても、それは、馬にとっては人間の自己満足、押し付けにすぎないんだ。馬はちっとも嬉しくない。仕方なく“仕事する”だけなんだ、と。


馬に乗る、ということは、言ってみれば、愛し合う恋人同士が結ばれるのと同じなのだ。
愛する人に心を許し、そして体を許すように、馬も、愛する相手だからこそ、心を許し、乗馬を許す。

本来は、馬に乗る、というのは、そういうものなのだ。

もし、愛してもいない相手を、無理やり押し倒して結びついたら、それは強姦になるし、あるいは、愛している相手じゃないけど“仕事だから”という理由で体を許せば、それは売春行為になる。

人間の男女の間で愛のない結びつきがあるように、馬と人の間にも、愛のない結びつきは存在する。

仕事で人を乗せる馬。人間の、心理的、あるいは身体的に強引なやり方が怖くて、ただ黙って乗せるしかない馬。飼い主は自分を「愛している」というが、自分はいろいろな理由で飼い主である人間を愛しているわけではなく、ただそう“調教”されて、そういうものなのだ、と思って、仕方なく乗せる馬。


もちろん、日本のように、そこらじゅうに馬がいるわけではなく、また気軽に馬を飼うこともできない環境では、「乗馬クラブ」は唯一現実的な「馬の乗り方を学ぶ場所」かもしれない。わたし自身にとってもそうであったように。

でも、そこで出会う馬たちの一体どれくらいと、そして一体どこまで、「通じ合える」ようになるだろう。自分の勝手な思い込みではなく、人から見ても、そして馬から見ても、確かに「二人は愛し合っている」という関係に、いったいぜんたい、どこまでなれるだろうか。


そう考えたら、「乗馬クラブで馬に乗る」ことは、たちまち意味を失ってしまった。

本当に「乗馬ができる」ようになるために、自分がすべき、たったひとつの何より大事なことは、「自分の馬と愛し合う」こと、それだけだったのだ。


乗馬を上達するために、乗馬クラブで馬に乗ることは、先の男女の愛になぞらえれば、いつか運命の相手と出会い愛し合って結ばれるときのために、風俗店に通うようなもの。相手への純粋な愛がなかったら、何度体を重ねたところで、本当に結ばれることも、まして幸せになることもできない。

反対に、本気で、心から、愛し合えば、相手が馬だって、「本当に結ばれる」ことはできるのだ。つまり、その背にまたがり、一緒に風になって、心の思うままに時間と空間とときめきを共にすることが、人と馬であっても、できるのだ。


リトルにそれを教わって、しばらくして、わたしはクラブに通うのをやめた。

馬に乗るということそのものを退けたわけではない。

でも、馬に乗る、のは、先にあるのではなくて、自分の馬と呼べる馬と愛し合う関係ができてから、ゆっくり進んで実現すればいいことなのだ。

最初から体目当てで近づく相手には、普通の人なら嫌悪感や警戒心を抱く。

馬だって同じだ。

まず乗る、のではいけない。
乗るのが先ではいけないのだ。


゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。


馬に乗って、自由自在に駆け巡り、馬と結ばれて、幸せや感動を分かち合いたい。

馬を好きな人なら、そう願うのは当然だと思う。
いつか、愛する人とめぐり合って、心を通わせ、幸せを分かち合いたい、人として誰もがそう願うのとまったく同じだ。

あなたが、単に趣味や息抜きとして週に何度か馬に乗るのでは満足できずに、心から上のように思うなら、あなたがこれから目指すべきことは、「乗馬技術の上達」でも「競技の経験」でもなくて、ただ、愛すべき、そして、愛し合える馬と出会い、願わくはその馬の飼い主になって、乗るより先にたくさんの時間を、一週間とか一ヶ月とかではなく、もっともっと長い期間を共有し、そうして互いをよく知り、理解し合い、尊敬しあう関係になること、それだけだ。


愛し合う二人にとって、結ばれることが自然で当然の結果であるように、馬と人も、愛し合うことさえできれば、一体となって自由に駆け巡ることはやがて、自然で当然の結果として、二人のもとにやってくる。




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